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ちょんまげの由来
日本の兜には天辺の穴という穴が開いている。
平安から鎌倉中期の蒙古襲来まではそこから(もとどり・ちょんまげの総称)を出して兜の安定を図った。

しかし、古墳時代までの衝角付兜には開いていない。
数ヶ月前に岩手県の徳丹城から出土した平安初期の木製兜にも開いていない。
(カヤでかなり分厚いようだ。)
ということは、その時代には髻を結って兜を被らなかったことになる。
聖徳太子の時代には冠を被っていたから、髻は結っていたはずであるが、武人は結っていなかったのか?
様々な憶測がめぐる。

ちょんまげの歴史について研究している人やその著書がないか調べてみたが、手がかり無しである。
ところが最近、「都市と日本人(カミサマを旅する)」という本を読んでいると、面白い記述を見つけた。

清朝の辮髪は狩猟民の特徴であるという。
またインディアンにおいては髪を一房だけ残してあとは剃りあげていた。
それは「この首を取れるもんなら取ってみろ」という戦士の誇りと挑発であったようだ。
髻は切った首をぶら下げやすくするためや、頭皮を剥いで身に着けやすくするためもののようである。

日本においては四世紀に狩猟民である縄文人の末裔、エミシが髻を結っていたことが記録されている。
それを聞いて朝廷は大変驚いたようである。

このように「ちょんまげ」には戦士の誇りと挑発があらわれているのである。


もうひとつの説として挙げたいのが、アンテナである。
巫女が髪を束ねるものを神の降る依代(よりしろ)とされたことから私が勝手に発想した説である。
神との交信をする依代として髻をとらえていたのかもしれない。
鬼太郎が妖気を感じるアレのようなものである。

最近先輩から兜の天辺の穴は九十九の軍神が出入りする穴なので容易に触れてはならないと教わったが、そのような意識があったのかもしれない。



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