2012.01.29 Sunday
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2006.12.27 Wednesday
山本勘助画像完成
山本勘助は江戸前期に書かれた甲陽軍艦に頻繁に登場する。
しかしこれは、物語性が強すぎ鵜呑みにできない。
近年古文書の発見により、勘助が実在の人物であることが証明されたが、依然謎の多い人物である。
今回、絵によって復元するにあたり、かなりの創作を余儀なくされたが、隻眼で片足が不自由、尚且つ非常に醜い男であったという甲陽軍艦にある特徴を考慮し表現した。
今でも世界の奮戦地域に行けば分かるが、現地の人間の目つきは、飢えた野犬のごとくであり、非戦闘地域の人々のような穏やかさは無い。
日本の戦国時代のドラマや映画に見るそれらは、全くそのことを考慮せず製作されているため、緊張感や陰惨さ残酷さに欠けるためリアリティが無く見るに耐えない。
今回、勘助の表情はその点を考慮しグロテスクを意識した。
武装について
兜は高岡神社にある古頭形を、前立は金剛寺に伝わる頭形の三鈷剣を採用した。
シコロは杉形とした。
胴は金剛寺に複数ある韋包腹巻を参考に上半分を本小札毛引威で下半分をリサイクル札で燻韋包(ふすべがわつづみ)とした。
韋所は絵韋とせず、鮫韋とした。
袖は当時の戦闘において実用的であった壺袖とし、それぞれ黒韋肩白威とした。
小具足や刀剣も室町時代末期から戦国時代初期の時代に合わせ、それぞれコーディネイトした。
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2006.12.22 Friday
ちょんまげの由来
日本の兜には天辺の穴という穴が開いている。
平安から鎌倉中期の蒙古襲来まではそこから髻(もとどり・ちょんまげの総称)を出して兜の安定を図った。
しかし、古墳時代までの衝角付兜には開いていない。
数ヶ月前に岩手県の徳丹城から出土した平安初期の木製兜にも開いていない。
(カヤでかなり分厚いようだ。)
ということは、その時代には髻を結って兜を被らなかったことになる。
聖徳太子の時代には冠を被っていたから、髻は結っていたはずであるが、武人は結っていなかったのか?
様々な憶測がめぐる。
ちょんまげの歴史について研究している人やその著書がないか調べてみたが、手がかり無しである。
ところが最近、「都市と日本人(カミサマを旅する)」という本を読んでいると、面白い記述を見つけた。
清朝の辮髪は狩猟民の特徴であるという。
またインディアンにおいては髪を一房だけ残してあとは剃りあげていた。
それは「この首を取れるもんなら取ってみろ」という戦士の誇りと挑発であったようだ。
髻は切った首をぶら下げやすくするためや、頭皮を剥いで身に着けやすくするためもののようである。
日本においては四世紀に狩猟民である縄文人の末裔、エミシが髻を結っていたことが記録されている。
それを聞いて朝廷は大変驚いたようである。
このように「ちょんまげ」には戦士の誇りと挑発があらわれているのである。
もうひとつの説として挙げたいのが、アンテナである。
巫女が髪を束ねるものを神の降る依代(よりしろ)とされたことから私が勝手に発想した説である。
神との交信をする依代として髻をとらえていたのかもしれない。
鬼太郎が妖気を感じるアレのようなものである。
最近先輩から兜の天辺の穴は九十九の軍神が出入りする穴なので容易に触れてはならないと教わったが、そのような意識があったのかもしれない。
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2006.12.18 Monday
勝頼に伊予佩楯をコディネート
伊予佩楯は揺るぎに組んであるため(札を漆で塗り固めないで組むこと)絵にするのは非常に難しいです。
股に巻きつける形で装着します。
絵のために一つ安い佩楯が欲しいですね。
もちろん絵の資料ですから、江戸とか新物でしょうけど・・・
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2006.12.13 Wednesday
信玄の息子、武田勝頼の武装
武田信玄のポップアップカード制作にあたり、さまざまな人物を書き入れているが、勝頼は外せぬであろう。
武田家を滅亡時の悲運の武将と知られる勝頼であるが、実際には信玄をも凌ぐ才覚の持ち主であったとされる。
お顔は和歌山 持明院蔵の勝頼像をもとに復元した。
甲冑は勝頼奉納と伝わるものの中で最も格調高い浅間大社 紅糸威最上胴丸を採用した。
兜はそれに沿うものとして個人に伝わる六十二間小星兜を採用した。
その他、小具足等も先年に私の先輩が浅間大社に奉納した、勝頼公像の武装を敬意を持って参考とさせていただいた。
籠手、佩楯、臑当はこれからもう少し書き込む予定です。
次は山本勘助です。
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2006.12.05 Tuesday
武田信玄、武装の真実(一部ウソ)
戦国時代の日本通、スペイン人宣教師ルイス・フロイスの記述によると、信玄は常に法師姿で、戦場に600人の僧侶を連れていたとある。
また江戸時代に書かれた軍法書、甲陽軍艦には兜の前立に諏訪法性上下大明神と記してあったとある。
甲陽軍艦は戦が無くなった江戸前期にもてはやされた書であるが、物語性が強く、真偽問題が多いため鵜呑みには出来ぬが、兜の前立に諏訪法性上下大明神と記してあったことに関していえば、あからさまに否定は出来ぬ。
あっても不思議はない。
今回、武田信玄ポップアップカード製作にあたり、清和源氏の血を引く軍事貴族である信玄の実際の武装と一般のイメージとをすり合わせる形で復元を試みた。
一般の信玄のイメージとは
・白熊の毛(本当はヤクの毛)を付けた風変わりな兜
・法衣、袈裟
・軍配
・数珠
などが彼を表す記号であろう。
しかしそれのみではあまりに発展性がなく面白みにかける。
東京・浄真寺に伝わる武田信玄像の胴丸と顔にそれらを重ねることによってリアリティとフィクションを融合させてみた。
この下の画像では分からないが、実際の絵ではやる気満々の表情で、その目は現代日本人のものではない。
言うなればイッている。
軍配・数珠・袈裟に関しても戦国時代に添うものを採用した。
兜の白熊の引き回しが実際より少々長いのはご愛嬌である。
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2006.12.01 Friday
「江戸の誘惑」と「アラーキー東京人生」見ました
母からの言い付けもあり、週に一度は博物館なり美術館なりに行って、美的センスを磨くことを心がけています。
江戸東京美術館
「江戸の誘惑」
ボストン美術館蔵の肉筆浮世絵を中心に展示されておりました。
春画ではないのですが、色使いや線が妙に艶かしく、ウットリするものがありました。
西洋の画家が、浮世絵を見て一番驚いたのは、表現の自由があったことです。
100年前ヨーロッパでは、庶民を絵に描くことはタブーとされ、キリスト、マリア、聖人、貴族以外は大っぴらに描けませんでした。
自画像など個人的なものは、サロンなどに発表することすらはばかられました。
それに対し日本では千年も前に絵巻などに庶民が描かれ、尚且つ、宗教革命も同時代には完了していました。
現在、江戸が世界中でブームになっているようです。
白人主導の時代が終わりを告げ、有色人種も対等に力を持つ人種のバランスの変革の時期に来ているようです。
もうそろそろ、日本人は鉄と火薬と金に対するコンプレックスを克服するべきでしょう。
東京人生
アラーキーは彼女も好きなので一緒に見に行こうと思っていましたが、予定が合わず一人「お忍び」(この言葉好きです)で見に行きました。
東京の一番、甘酸っぱい部分を切り取った感じがしました。
アラ−キーの写真を見ていつも思うのですが、アラーキーは写真家ではなく、カメラそのものなんだなぁということです。
あるいはレンズでしょうか。
純粋な愛を感じます。
そういえば、結局、彼女に一人で行ったことがバレて、大目玉をくらいました。
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